捏造日乗
 

聞き書き 林嶽寺文書

これはある酒場で出会った自称郷土史家が語った話の聞き書きである。
郷土史家の話は長時間に及んだがその細部は失念した。だが、記憶の彼方に消える前に覚えている限りをここに記しておきたい。
尚、これが与太話であるか真実であるかは知らない。すべては読者の判断に委ねることとなる。


木曽山脈の東南に降る天水は段丘に深い田切をつくって天竜川に注いでいる。田切にはいく筋かの滝が流れ落ち、かつては修験者の行場となっていた。
その一つ妙見滝の近くに「字行者塚」という地名がある。しかし、現在周辺に行者塚らしきものはどこにも見当たらない。

妙見滝に近いやや開けた川辺に町の教育委員会の立てた消えかけた立札と小さな五輪塔が置かれている。
「江戸時代後期の天保年間、上之坊と名乗る修験者がこの地で草庵を結んだ。上之坊は衆生済度の誓願を立て自ら土中に埋まりここに捨身入定した。入定塚はのちの洪水で流されて今はないが「行者塚」の地名を残すに至った。平成十二年九月〇〇町教育委員会」

この地の言い伝えによれば、上之坊は擦れた墨染の衣に錫杖を突き、どこからともなくやって来た修験者で卜占や加持祈祷で信奉者を集めていたとされる。氏素性のよく解らぬ人物だが、昭和の滅私奉公の時代に至っては地元尋常小学校の修身で衆生済度の捨身行をした郷土の偉人として取り上げることもあったという。
ところが近年になり、近くの林嶽寺で奇妙な文書が見つかった。文書は寺誌と住持の私記だが、読み下すと大意はおよそ次の通りとなる。

「干ばつによる大凶作の宣託を下し、爾来行方知れずの妙見滝の行者某が天保三壬辰閏十一月、三里離れた宿場で役人に捕らえられ、行場へ連れ戻された。行場で請雨の法を行い、のちに縛り滝に沈め直ちに亡骸を埋め塚を築いた。此れを衆生済度の土中捨身と伝え秘匿した。翌天保四癸巳九月、霖雨
止まず橋を落し人馬を流し田畑悉く水に浸かり、妙見滝の塚、庵共に流失した。此れを行者濤と恐れるものあり。翌秋彼岸、読経し滝の行場に石塔を置いた。」
※1.霖雨=ながあめ
※2.濤(とう=おおなみの意)

更に住持の私記には上之坊の出自や当地での様子が記されていた。
私記によれば上之坊は無位のもので、熊野を出て諸国を廻ったのち遠州より秋葉道を経てこの地に流れ着いたという。行者は不吉な宣託を下し、自らが衆生済度の誓願をたてて加持祈祷を行い、信奉者から金子や貢物を得ていたと記されている。
そこには住持の流れ者への蔑みが伺われるが、それを差し引いても上之坊の所業が読み取れる。おそらくは自らが脚本を書いた不吉な宣託と済度のマッチポンプで金品を得ては諸国を流れ歩いていたのだろう。しかし、決して豊とは言えないこの土地において、信奉者を集め金品を得ていたことから鑑み、相応の法力は備えていたものと思われる。
どうやら上之坊の「捨身入定」は世相を乱し、金品を得たことへの懲罰的な処刑と人身御供の意味合いが含まれていたようだ。

尚、各地に甚大な被害を及ぼした天保の大飢饉は、上之坊が滝に沈んだ翌天保四癸巳の大雨による洪水や冷害に端を発したといわれる。
この時、当地を襲った洪水が上之坊のくだした冥罰「行者濤」であったのか、或いは偶然の自然災害であったのか、今では知る術がない。


2020.11.17


※伊那谷の想像上の叙景と江戸末期の世相を想像して書いた即興作り話です。つまり郷土史家も聞き手も同一人物であるワタシの自演乙です。
時を天保三壬辰閏十一月にしたのは閏月が文中に入ると、嘘話に真実味を帯びるからで、大した意味はありません。
しかし、翌年から天保の飢饉が始まることが史実であることを知らずに書き始めました。

「行者濤」は江戸時代、妙心寺の関山派と黄檗派の諍いで起こった逸話「関山濤」からとった造語で、人名、寺名、地名などはすべて架空のものです。




Rhodes Piano


夜半にインターホンが鳴った。誰だろうか・・・。

モニターを見ると見慣れぬ中年男が立っている。男はSと名乗った。
男はかつて借りたCDを返しに来たと言う。
Sと名乗る男は玄関でCDを手渡すと、こちらが話しかける間もなく踵を返して帰っていった。
振り向きもせずに去って行く男の姿が小さくなるのを見ながら、釈然としない気持ちだけが残った。

Sは学生時代の同じ学科の同級生だった。学生の時分に新宿PIT INNの昼の部で鉢合わせになったこともあり、同じJAZZファンとして軽い親近感を覚えていた人物だ。卒業後、そんなSと再会したのは20代の後半、神保町の書店だった。ありきたりな挨拶をかわし、成り行から連れだって山の上ホテルのバーへと向かった。

「学生の頃、このあたりのJazzバーや新宿PIT INNで一緒になったことがあったっけ。最近は行ったりしないの?」と、Sに話を向けてみた。

「卒業してからは殆ど行かなくなったな。PIT INNは一度も。今じゃ小さな会社で朝から晩までコキ使われる身だ。」と、つまらなそうに答えた。
バーでは急ピッチでグラスを空け、とりとめのない話をしたが、共に忙しく窮屈な日常を送っており、話はさして盛り上がらなかった。

別れ際にSは「頼みごとがあるんだけど・・・」と、切り出してきた。

「実は来週引っ越すんだけど、手運びしたい荷物があってね。クルマ持ってるんだろ?手を貸してほしいんだ。」
「来週?・・・」と、気のない返事で手帳をめくって見せた。
「そうか、そうだよな」そう言ってSはバーテンダーを呼んでカードを取り出した。
「わかった、いつなんだ?」

杉並にあるSのアパートに着いたのは午後5時を少し回った頃だった。部屋はすっかり片付いており、ただ一つ部屋の片隅にRhodes Pianoが鎮座していた。
Rhodes Pianoか、懐かしいな。なにか弾いてみてよ。」
「ああ、何がいい?」
Blue Monkかな。Monk好きだっていってたよな?」

Sはカーテンが取り払われた秋の
西日が差し込む部屋でBlue Monkを弾いた。
奇妙な不協和音を交えたアドリブを2コーラス弾いて手を休め、「最近はあまり弾く時間がないんだ。」そう言って、窓の外に目をやった。


知ってのとおりRhodes Pianoは重い。耐火金庫のように重たい。

二人で大汗をかいて三階の部屋から細い階段を折り返して降り、無理やりクルマに押し込むと新居のアパートの部屋へと向かった。
部屋にRhodes Pianoを運び入れ、一通り作業が終わると二人して床に胡坐で温くなった缶コーヒーを飲んだ。

「今日はありがとう。助かったよ。またいつか。」そう言ってSは謝礼と書かれた茶封筒を渡してよこした。
それを受け取ると「うん、またな。これよかったら。」 と言って、クルマに積みっぱなしのCD「Thelonious Monk In Italy」を手渡した。
「またな」、と言ってはみたが、もう会うこともないだろうと思った。Sもそう思ったに違いない。




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二日酔いが癒えぬまま目を覚ました。
朝のコーヒーをれながら、Sがやってきた夢とも現ともつかぬ出来事と、既に薄れつつあったSの記憶をパズルのピースを嵌め込むように繋ぎ合わせてみた。一体彼は今何をしているのだろうか?それからPCで出身学科のOB会のページを開いてみた。そこにはOBのその後の活躍の様子や訃報が書き込まれている。
ログを遡りそこにSの名を見つけた。Sは7年前に没し、既にこの世の人ではないことを知った。

「CDを返しに来たって?まさかあの時あげたCDって訳じゃないだろうな?」と一人呟き、ふとテーブルに視線を移したが、そこに件のCDなどあろうはずもなかった
コーヒーでひと息つくと、あの日Sと飲んだ温い缶コーヒーの遠い記憶が呼び起された。
西日に照らされてRhodes Piano弾くSの寂しげな顔が浮かんだ。


※PIT INN=新宿にあるライブハウス。昼の部はプロへの登竜門で、マニアックな音楽ファンが集まる事で知られる。

RhodesPiano=アナログのエレクトリックピアノ
※Blue Monk=セロニアスモンクのB♭のブル ース



2020.8.18記
※光陰矢の如し、青春の儚さと学生時代の音楽好きの友人の死。そんなことに思いを巡らせて即興で書きました。

尚、「Thelonious Monk In Italy」はスタイリッシュなモノクロのジャケットのCDで、イタリア語のMCからドラムソロで始まるカッコイイ一枚だが、そこににBlue Monk収録されていませんし、Thelonious”The Great”Rhodes Pianoを弾いたりもしません。




冬の旅


ある冬一人旅をした。
高速船で瀬戸内海の小島に着くと、波止場の案内所で「島内一周バスツアー」に申し込んだ。
ツアー開始まで半時間ほどあったので、ビール片手に島の小動物を追いかけまわして時間を潰すことにした。
ややしてからバスに乗り込むが他の客は誰も乗ってこない。オフシーズンの平日、こんな小島を旅するものは余程の変わり者なのだろう。
結局、そのまま運転手とガイドが乗り込み、客が自分一人きりのバスは走り出した。

女性ガイドはこちらを見て「皆さま」という。「皆さま、左手に見えてまいりましたのは・・・」、「皆さま、こちらで10分間の休憩に・・・」
他に誰かがいるような気がして後ろの座席を度々振り返ったが、もちろん誰も居るはずがなかった。

島を出て対岸の街の宿に着いた。
宿はホテルとは名ばかりの商人宿で、館内は暗く、通された部屋は古びたリノリウムの廊下を左に曲がった先にあった。
部屋に入り西側の窓を開けると隣の料理店が出す油煙の臭気が立ち込めボイラーの重低音が響いていた。そして、その向こうには錆びたアーケードが見える。

退屈なので部屋を出て、シャッターの目立つアーケードの中ほどにある古いバーに入ってみた。バーはカウンターだけの小さな店でMJQが静かに流れている。
先客は一人きりで、四十がらみの女性が一人退屈そうに水割りを飲んでいた。女性とひとつ空けて座り、一番安そうなカクテルを一杯に奢ってやった。それから頃合いを見て「店を変えて飲みなおそう」と小声誘ってみたが、「結構です」と、ニベもなく断られた。その即答ぶりに軽くプライドを傷つけられ、「断るにしても他に言い方があるだろう、無粋な女だ。」そう言ってやりたかったが、バツが悪くなり何も言わず早々に退散した。
店を出て辺りを歩き回ったが、埃をかぶったアーケードに憂さを晴らせるものは何もない。仕方なく古びた酒屋で
買ったサントリーホワイトをぶら下げて宿に戻ることにした。

宿の入り口で黒板に白文字で「歓迎〇〇様ご一行」と、自分の名前が書いてあるのが目に入った。「一人のどこがご一行だというんだ?」そう呟いて部屋に戻ると、隣の部屋のTVの音と宿泊客の笑い声が容赦なく入り込んでくる。
「なにが欽ちゃんの仮装大賞じゃ、バカ野郎っ!」と、薄い壁を通して隣の部屋に聞こえるか聞こえないくらいの声でいってみた。

安酒がすすむと入口の「ご一行」が無性に気になり始めた。
時計は11
時をとうに回っていたが、酔った足でフロントに向かい支配人を呼び出し「あの、僕はご一行じゃないんだけど」と言ってみた。
すると支配人は「ああ、もう片付けましたんで」と、迷惑そうに言い残し、踵を返し行ってしまった。支配人の素っ気ない態度に失望を覚えたが、諦めて部屋に戻り床についた。


夜半に目が覚めると、バスルームに誰かがいる。半透明の薄いドアを通して確かに人の気配がする。
「同行二人か?」そう呟くと不思議な安堵を覚えた。そして再び眠りについた。

2018.10

※瀬戸内海の小島での出来事や、うらぶれたビジネスホテルの思い出などを散りばめた即興作り話です。
「バスルームに誰かいる」はかつてスペイン・グラナダの安ホテルであった実話。一体何だったのだろう?と、今でも思ったりしますが、グラナダはレコンキスタの最後の戦いの場所で、霊が出いておかしくない土地。現にそんな噂をきいたことも。
しかし、そのころ自分はベッドにいながら別の自分が何処に出回っている感覚を覚えることがあったので、実は「同行二人」ではなく、勝手に出歩くもう一人の自分がバスルームにいたのかもしれない。
尚、一人でも一行。先ごろ、二枚目俳優の古谷一行さんがお亡くなりになりました。とても素晴らしい役者さんで、「金田一シリーズ」、「露天風呂シリーズ」など、数々の一般大衆向け娯楽作を残されました。謹んでご冥福をお祈りしたいと思います。2022.11



晩秋の旅(短縮版)


立冬をとうに過ぎたある日の午後、クルマでひとり旅に出た。
昨今の事ではない。IT
革命前夜、携帯電話が虎屋の羊羹くらいの大きさだった頃の話だ。
その日、二日酔いが癒え、陽が西に傾きはじめたころ、無目的にクルマを西に走らせた。

箱根を上り、芦ノ湖畔にクルマを停めると桟橋に繋がれた白鳥の足漕ぎボートが目に入った。
「あんなものに銭を払って乗る奴の顔が見たいもんだ。」そう言って足元の小石を白鳥ボートに向かって投げつけてみた。
石は白鳥の横面に命中し間抜けな音を湖面に響かせた。もう一撃加えようと再び足元の石を見繕っていたところ、ボート係の男がなにやら叫びながらこちらに走って来るのが見えた。
慌ててクルマを走らせ、辺りを闇雲に走り回ったのち御殿場方面に箱根を降ることにした。晩秋の陽は短い。乙女峠にさしかかった頃、眼下の街は既に疎らな灯りがともり始め、山の端が茜色と濃紺の空に輪郭線を描いていた。峠にある風車を模したレストラン「ムーラン乙女」の跡地にクルマを停めショートホープを燻らしながら、契約したばかりの携帯電話で富士山麓の小さな街にその日の宿をとった。



「〇〇ターミナルホテル?気味の悪い名前だ」
駅前ロータリーにクルマを停めて、あたりを見回すと、建物の隙間からライトに照らされたホテルの看板が見える。
フロントでチェックインを済ませ、アクリル棒の鍵で入った4階の部屋は予想外に狭く、細いベッドが無理矢理2つ並べられ、その脇には布張りのソファが置かれていた。
草臥れたソファと
煙草で変色した壁紙、年季の入った絨毯の黴臭さは晩秋の一人旅の侘しさを殊更に増幅させた。

ソファに深く座りデュワーズの小瓶を傾けた。するとスプリングの抜けたソファはどこまでも深く沈みこんでいく。それはまるで碧のセノーテにゆっくり沈んでいくかのようだった。言うまでもないが、セノーテに沈んだことなどあるはずもなく見たこともない。しかし、それは葉山の海でもダイビングプールでもない、深碧のセノーテに沈んでいく感覚だ。
やがて目の前の映像がモノクロになり、次第に光の殆ど届かない暗い鈍色になった。



どこからか芳香が漂ってくる。誰かが香を焚いているのだろう。伽羅(きゃら)か?麝香(じゃこう)だろうか?こんな安宿でいったい誰が高貴な香を焚いているのだろう?

あたりを見回すとベッドの脇に小さな鹿がいる。きっと麝香鹿に違いない。鹿は芳香を振りまきながら歩き出すと塔のように聳える仏式のお堂に入っていく。
黒瓦の敷かれた堂内の正面には壇が築かれ、そこには巨大な涅槃図が掛かっていた。そして、そこだけ柔らかな金色(こんじき)の光で覆われている。

やがて鹿は涅槃図の白象の脇に居場所をみつけ絵の中に消えた。涅槃図の釈尊は金粉を高く巻き上げ、あたりは麝香の甘い芳香で満ちている。
金色の光を見つめていると、徐々に歓喜に満ちていくのが解った。耳を澄ますと香が燃焼して燻される音や、釈尊の巻き上げる金粉の擦れあう音まで聴こえる。
暫くその状態が続いたが、やがて身体を包んだ歓喜と浮遊感は徐々に消え、足元の黒瓦から強い冷気が伝わってきた。

酷い寒気を感じた。我にかえると冷え切った部屋で羊羹のような携帯電話を握りしめソファに深くもたれていた。
「妙にリアルな夢だ」そう独り呟いてベッドに入る刹那、鼻腔に麝香を感じた。
今でも安宿のくたびれたソファに座わると、この奇妙な記憶が蘇る。そして脳裏の深層に燻習された麝香が微かに薫る。



2019.2.27
※かつて存在したホテルのイメージや、夢の話を繋ぎ合わせたまったくどうでもいい作り話です。
いまでも古い思い出と香りがリンクして実際に鼻腔に感じたり、映像となって蘇ったりします。2022.10




野毛よこはま


野毛で痛飲した。
3軒目、酔いに任せて怪しげなバーの扉を押した。
紫色のアクリル板の向こうに白熱灯がぼやけて見えた。扉には白文字で「crackpot」と書いてあったように記憶している。
カウンターに肘をついて貧乏ゆすりをしていると、「いらっしゃい、外は寒かったですか?注文がお決まりならすぐにご用意します。」と、初老のマスターが言う。

「飲んできたから水割りを薄めに作ってもらえますか?」
「デュワーズ、氷は入れなくていいですね?」
「一見なのになんで好みが解るんですか?」
「顔に書いてあるからです。」
「へえ、どこかのホテルのドアマンみたいですね。」


酒はすぐに出てきた。ナッツをつまみながら薄いデュワーズを2分で飲み干すと右隣の男が話しかけてきた。
煙草の臭いの染みたグレイのツイードを着た70代と思しき白髪の老紳士だ。きっと壁のシミのようにいつもこの席にいるのだろう。
老紳士は父親が帝国海軍の将校だった関係で横須賀に生まれたそうだ。そして、自らは元々商業デザイナーで、「チョコレートなんかのパッケージデザインをしていたんだ。あなたも見たことあると思よ」と言う。それからお決まりのバブル期の羽振りのよい話をひとしきり聞かされた。しかし、そんな栄光の日々も今は昔となり、現在は仕事から身を引き、ひとり野毛山のみなとみらいを眼下に眺めるアパートメントにいるらしい。
そんな身の上話とも自慢話ともつかぬ問わず語りを生返事で聴きつつも、左隣の蛾のような化粧の中年女性に話しかけるタイミングを伺っていた。


その時、老紳士が奇妙なことを口にした。
「父親は自分が生まれてすぐにレイテ沖で戦死して一面識もないが、今も時々会っている。」

父親は異国の話をしてくれる。巡洋艦のWatchで波間に人魚をみた話。それから、南洋の島で森の精霊に謁見する話など、いつも楽しそうに話してくれる。
(因みに人魚は上半身が西洋人の女性で下半身が魚、精霊は人や獣の霊が昇華したものではなく、まったく次元の異なるエネルギー体なのだそうだ。)
楽しい話ばかりではない。凄惨な話も多かった。戦友や自分の体が一瞬にして消えてなくなったことも克明に話してくれた。

そのうちに歳を取らない父親はいつしか自分よりも年下になってしまった。それからというもの若造の父親に会うたびにハラハラと落涙を禁じ得なくなった。

どうやら異界と繋がるすべを持っているらしい。

しかし、このバーでそんな酔狂な話をまともに聞く人間は誰もいないのだろう。

老紳士の話は止むことがなかったが、
時計をみると午前1時をとうに回っていた。

「面白かったけど役に立たない話ですね。じゃ、帰ります。」

「弘明寺だろ?近いんだからもう少しいいじゃないか?」
「近くないでしょ?それに何時だと思っているんですか?もうとっくに終電終わってる時間だし・・・」
デュワーズの後、シングルモルトをしたたか飲んだが、勘定はすべて右隣に払ってもらった。
店を出てすぐにタクシーを拾った。一緒に店を出た老紳士は運転手に「弘明寺までね。これで足りなかったら連絡して」と、数枚の札と小さなメモを渡していた。


走り出してすぐに運転手が言った。

「お代は先ほど頂いたから大丈夫です。」と。
「じゃ、そのメモは貰っときますよ。」
そう言って運転手からメモを受け取った。渡されたメモをポケットに押し込むと、ほどなく深い眠りに落ちた。


酷い頭痛で目が覚めると時計は午前11時を回っていた。自宅に着いた記憶もベッドに入った記憶もない。
少しおいて微かな記憶を頼りにポケットを探ると二つ折りの小さなメモが出てきた。乱雑に書かれた番号は別人のものだった。
すべては夢の中の出来事だったのかもしれない。


2018.1.18記

※横浜野毛辺りの深夜のバーにいそうな変な人のイメージを元に即興で書いた作り話です。2022.10


山徑を行くはなし

夕暮れの山みちを一人歩いて行く。
陽はまもなく稜線に沈む。先を急ぐことにした。
やがて視界がひらけ眼下に街の灯が見えてきた。

立ち止まり煙草を燻らせると視界が潤み、滲み、眼下の街は色と輪郭を失い、まだ明るさの残る薄闇に溶けていった。



軽い頭痛を覚えた。心なしか節々が痛い。
「そうだ今、山みちを行く夢を見ていたんだ」
否、そうではない。山みちを行く道すがらにむしったムカゴが掌にある。
「夢ではなかったのか?」
「否、全てが夢の中なんだ」
短くなった煙草を揉み消し、すっかり暮れてしまった山みちをひとり引き返した。


2019.10.4
夢中夢の話で何かを暗示した話ではなく深読み無用の与太話です。




昭和残照伝杉沢新田

「もはや戦後ではない」と言われた時代の少しあと、杉沢新田の正蔵さんが死んだ。
杉沢新田は戦後の農地改革を期に農地の統合、再分配と新たな新田開発の合わさった複合新田だ。この地の稲荷神社の境内には令和の御代になるまで新田開発当時に建てられた古びた町内会館があった。会館は平屋づくりで、畳敷きの広間と小部屋があり、広間には100円テレビ(100円を入れると2時間のタイマーが働き、時間になると無慈悲に電源が切れる)が置かれ、長押には歴代の町内会長の肖像写真が掛けられていた。歴代会長の写真はすべて正装で、中には明治の元勲を思わせる厳しい顔で撮られたものもあった。ところが歴代を順に眺めて行くと第3代目会長だけが抜け落ちている。その第3代目こそが正蔵さんだ。

正蔵さんは明治の御代に生をうけた地付きのものだ。青年期に都会の農学校に通った地域一番の知恵者として知られ、その博識は新田開発に際して土壌の改良や新田の区割り、地形を活かした水路の整備に至るまで遺憾なく発揮された。農家にとって水の確保は死活問題である。新田開発以前は富裕な地主の我田引水は当然の権利であり、水の利の悪い土地をあてがわれていた貧農は、長年、否、代々にわたり辛酸をなめ続けたと言われる。小作の出だが知恵者の正蔵さんは、高低差のある地形の新田に平等に水が行き渡るよう円筒分水槽やサイフォンの原理を応用した複雑な水路のカラクリを殆ど一人で考え出した。
それだけではない。地域のルール作りの草案も整えるなど八面六臂の活躍を見せた。ルールとは台風や大雨の時の「我田防水」を固く禁じるルールだ。平たく言えば水が出た時に地域の田に平等に水を流し分散させるルールで、水路に設けられた水門を操作して自分の田への水の流入を防ぎ、他人の田を流失、水没させることを固く禁じる鉄の掟のことだ。
昭和の御代になり30余年が経過し、「もはや戦後ではない」と言われた少しあと、正蔵さんが水路に流されて死んだ。そのころ全国的に甚大な被害を及ぼす台風に見舞われたことは今も知られている。台風の日、正蔵さんは「水路を見てくる」と家族に言い残し、それきり帰らなかった。水路の下流で息絶えた正蔵さんが見つかったのは水の引いた翌日のことだ。正蔵さんは自らの命を賭して地域の田を水害から守ろうとしたのだ。その自己犠牲の精神は大いに称賛され、地域の英雄として祭り上げられ、果ては胸像をつくって会館前に設置する決議が棄権者一人を除いた賛成多数で採択された。ところが、高岡の鋳物屋で胸像が完成をみて、更に御影石の台座が出来上がった頃、都合の悪い事態が起こった。

台風の日、自己犠牲において地域の田を守ったとされる正蔵さんの行為が、やがて鉄の掟を破る行為であることが解ってきた。地元民の証言から正蔵さんの操作した水門を綿密に検証した結果、意図的に一部の地域を水没させる企てがあったことが露呈したのである。それは、この地の地形や水路の複雑な水流を熟知する正蔵さんならではの企てだった。この時の被害が主水路から遠く離れた元地主の所有する区画周辺に集中していたことは偶然ではなかったのである。
奇しくも正蔵さんは自らの命と引き換えに先祖代々積年の怨恨を晴らしたのである。 完成を見た胸像は会館の物置部屋の奥にしまいこまれ、長押の肖像写真は人知れず外された。しかし、正蔵さんを蔑むものは殆どいなかった。否、表向きで嘲笑って見せても本心では歓声を上げ、留飲を下げた者もいたと云われる。

それから60余年、令和の御代になり町内会館は取り壊され、物置部屋の奥で忘れられていた正蔵さんの胸像も古物商に引き取られて行った。

主のいない御影石の台座はいまでも稲荷神社の境内に残っている。

2021.1
※台風で不幸にして用水路に流される人々の裏にも、それぞれ長大なストーリーやのっぴならない事情があります。
そんな事情を正蔵さんの名を借りて書いた即興の作り話です。2022.10


Nのこと

Nは蕎麦通だった。
通い詰めた店○○庵は「国産蕎麦粉使用」、「石臼挽き」を掲げる店で、もり蕎麦一枚の分量が幼稚園児のオヤツ程のプチ高級店だ。
Nはいう。「ガラス張りの中で蕎麦打の実演なんかして見せるのは野暮だね。腕に自信がありゃあんなことしないもんだ。それにさ、蕎麦屋ってやたらと田舎風の飾りがあるだろ。偽もんの水車が回っていたり荷車の車輪が転がっていたり。あれも厭だね。野暮の極みだね。」
確かに○○庵にはガラス張りもなければ水車も回っていない。それに車輪も転がっていない。
Nはこの店に最低週2回は通い、一枚のもり蕎麦を無言で食し、何かに追われるようにして店を出る。このルーティンを2年余り繰り返している。
店主は職人気質の無愛想な男だから常連になっても余計な会話などしない。

Nはこの店の蕎麦は庄内産とみた。実際に山形に行ったときに食した蕎麦と風味も喉越しも、微妙な歯ごたえも実に似通っていた。
かえしは寝かせた濃いめの溜り醤油に純米本醸造みりんを少々、ダシは土佐の鰹ベースに利尻昆布が効かせてあるのだろうか?
店とは微妙な距離をとりつつ通い続けたNだが、あるとき、旨い蕎麦をいつ食べさせてくれる店主に何かお礼をしようと考えた。しかし、店で他の客のいる前で礼をするなど野暮の極みだ。Nはとっておきの純米酒を携え店の裏口へと向かった。誰もいない開店まえの裏口にメモを添えた日本酒をそっと置いて帰るつもりでいた。

裏口に着くと社名の入った白いミニバンが停まっており、上下白服に白帽の若い男が何やら店に運び込んでいる。見ればそば粉の紙袋を担いで店を往復しているようだ。
国産粉石臼挽きってのは嘘だったのか?いや、自家製粉とは言ってはいなかった。それにしても・・・・・。
Nは意を決して若い男に聞いてみた。「お兄さん、それどこ産の粉?袋に石臼挽きって書いてあるが?」
若者は気のいい男で、「はい、国産と海外産のブレンドです。機械で挽いていますが、石臼を使っていますので好評なんです。この辺じゃ駅前の○○屋さんにもお納めさせて頂いています。」と屈託のない笑顔を見せた。言い終わると、既に打たれ一人前に小分けされた蕎麦のケースを二段重ねて店へと消えた。
駅前の○○屋(登録商標)は「流儀にもとる」と、Nが蛇蠍のごとく嫌う店で、蕎麦屋の看板を揚げてはいるが、うどんやラーメン、カレーまでも出す昔ながらの街の蕎麦屋だ。
Nは手にした純米酒をそのまま持ち帰ると一日半で飲み干した。

傷心のNはその日を境にしばらく街から消えた。
確かに○○庵の「国産蕎麦粉使用」、「石臼挽き」の表示は間違ってはいない。国産蕎麦粉が1割でも混ざって居れば「国産蕎麦粉使用」に違いはない。また、予め打たれた蕎麦を使うことだって石臼挽きに違いはないし、繁忙時には仕方のないことかもしれない。
しかし、このような産地偽装もどきのカラクリは珍しいことではない。蕎麦に限らず酒にだってある。海外から買い付けた酒を国内で混ぜたり瓶詰めし、大層な名前をつけて国産品と謳って売られることもある。こうした行為は公然の秘密となっているが、法で許されているのだから仕方がない。そう考えるとNのような過剰な思いれをする単純で恥ずかしいスノッブも、ある意味被害者であるわけだ。生産者、提供者には矜持を持って仕事をしてもらうことを願わずにはいられない。
尚、Nは現在、蕎麦通は“卒業”して”ラーメン道”に邁進しているそうだ。なんでも湯河原のI商店のラーメンは絶品だそうで、その店でラーメンを食すためには予めネットで整理券を求め、それから順番待ちをしてからようやく一杯のラーメンにありつけるんだとか。通であるのも骨が折れる。ご苦労な事だ。

2020.12.9
そば通で能書きたれる人はウザイ。味にしろ何にしろ敏感すぎることは良いことではない。達人になるべからず。
即興で書いたフィクションです。




この世の鬼

九州出張の業務を終えたYは、彼の地の担当とあいさつを交わすと荷物をまとめてそそくさと帰ろうとした。それをみた取引先の担当者が言った。
「これから近くの居酒屋で簡単な懇親会をご用意したく思っています。出席して頂けると有難いのですが・・・」

Yが早く帰りたがるのには理由があった。それはこの地の名物であるふぐのコース(お一人様OK、肝付の(松)コース)を予約していたからだ。
ふぐの肝はこの地でしか味わえない。そんなふぐを独り占めで堪能できる機会などまたといないことだ。
しかし、それを正直に伝えては角が立つ。更には今後の取引に差しさわりがあると考えた。

「ああ、それは有難いですね。喜んで出席させて頂きます。」
Yは思った。「有難い」と「喜んで」が余計であったと。それからビールを一杯だけ付き合ってから中座すると心に決め、その理由を大急ぎであれこれ考えた。

居酒屋で懇親会が始まった。取引先の面々が嬉々として箸をのばしているのは大皿に山のように盛られた当地のソウルフードとり天だ。
Yは基本とり天が好物だった。たびたび行く丸亀製麺では必ずとり天を食すほどだ。だからと言ってふぐに勝るものでは全くありえない。しかし、折角の好意を無にしては・・・・。

取引先の担当者が言う。
「遠慮しないで食べて、飲んでいってください。」
「はい、そうさせて頂きます(汗)。」

取引先の接待攻勢、否、酒注ぎ攻勢は容赦なく、Yに中座する隙を与えなかった。
とり天をたらふく食べ(食べてしまい)、好みでない冷えすぎのスーパードライをおよそ2ℓ飲まされた。
この時Yはスーパードライの2ℓがほんの通りをよくする為の潤滑剤であることを知らなかった。それから待っていた本命は当地の名物麦焼酎だ。
この地では親睦を深めた証にグラスにナミナミと注がれた麦焼酎を生のまま飲み交わす風習があるらしい。
ふぐの予約時間が気になったが、生来酒好のお調子者で、いい加減酔いの回ったYは注がれるままそれを立て続けに2杯飲んだ。と、ここで記憶が途切れた。

Yが出張から戻って数日経ったある日、九州から封書に入った素敵なプレゼントが届いた。
封書から出てきたものはドタキャンしたふぐ料理屋の請求書だ。同封されていた一筆箋には「またのお越しをお待ちしております。」と書いてあった。まったくご丁寧なことだ。
ネットバンクで代金18,000円の振込手続きをするとYは舌打ちして呟いた。「あいつらテメエが社費で飲みたかっただけじゃねえか。ひとをダシに使いやがって、鬼が!」

手前に都合の良い善意はときに鬼ともなるが、心にもないことを言い酒におぼれたYに非があることは火を見るより明らかだった。

2023.2.3

※この話はフィクションです。節分に書いた法螺話です。
とり天が食べたくて、その前にふぐ食べたくない人、チューハイが飲みたくて17年物のスコッチに手を付けない人もいると思います。好みなのだからどうでもいいと思います。
尚、現代のようなアルハラを極悪人呼ばわりされる世相では、焼酎を生のまま飲み交わす習慣は絶滅寸前と思います。




続・この世の鬼~福岡編

福岡出張の業務を終えたYは、彼の地の担当とあいさつを交わすと荷物をまとめてそそくさと帰ろうとした。それをみた取引先の担当者が言った。
「今日は当地にお泊りと聞いています。これから近くの居酒屋で簡単な懇親会を用意したく思っています。出席して頂けると有難いのでのですが…」
Yが早く帰りたがるのには理由があった。それは翌朝大分に移動し、国東半島古寺巡礼ツアー「六郷満山バスツアー」に参加し、それから帰路の大分空港周辺で地魚料理を堪能するつもりでいたからだ。
Yは福岡での仕事を終えたあとは一人で夜の街を軽く流し、翌日の大分行きに備えるつもりだった。しかし、それを正直に伝えては角が立つ。更には今後の取引に差しさわりがあると考えた。

「ああ、それは有難いですね。喜んで出席させて頂きます。」

Yは思った。「有難い」と「喜んで」が余計であったと。それからビールを一杯だけ付き合ってから中座すると心に決め、その理由を大急ぎであれこれ考えた。
居酒屋で懇親会が始まった。取引先の面々が嬉々として箸をのばしているのは鉄鍋で焼かれた当地のソウルフード「鉄鍋餃子」だ。
Yは日ごろから自ら食通を標榜し、「やや硬めに茹でた佐藤養助本舗の稲庭うどんを比内地鶏と利尻昆布のあわせダシのつゆで食べることが至高の食」と言って譲らなかった。そんなYに言わせれば福岡のとんこつを多用する食は「脂で脂を征するようなもの」で、B級ならぬC級の下の評価だった。
取引先の担当者が言う。

「遠慮しないで食べて、飲んでいってください。」
「はい、そうさせて頂きます(汗)。」

Yは鉄鍋餃子に箸を伸ばしてみた。
鉄鍋餃子とは厚手の皮の餃子をとんこつスープで蒸し焼きにしたもので、Yの言う「脂で脂を征する」最たるものだった。
が、しかし、これが旨い!目からウロコの旨さだ。濃厚でジューシーな餃子とキンキンに冷えたビールとの相性は抜群だった。
それから出てきたのは当地の大名物「もつ鍋」だ。言わずと知れた豚モツとスライスしたニンニクとニラの超ストロングスタイルの鍋ものだ。
これも旨い!ロックで飲む「米焼酎」と熱々鍋の相性が悪いはずがなかった。この地の米焼酎は酒糟から蒸留したもので、馥郁たる香りの危険なアルコール飲料だ。
Yはそれをあおるように飲んだ。
鉄鍋餃子ともつ鍋と冷えた酒で腹が満たされたあと、ほどなくして懇親会はお開きになった。
しかし、それで解放された訳ではなかった。親しくなった営業担当に誘われるまま〆のラーメンを食べることになった。
入った店で営業担当(元ラグビー部)に勧められるまま、「かつ乗せ」を注文した。「かつ乗せ」とは、とんこつラーメンにとんかつを乗せた走召糸色ストロングスタイルのラーメンだ。
Yはそれを隣の営業担当につられるように平らげた。それから「替え肉」を注文したようにも思うが・・・記憶が定かでない。



Yは狭いビジネスホテルの一室で目を覚ました。
しかし、どうにも腹に力が入らず動けない。昨晩の慣れないストロングスタイルの食事と冷たいビールに焼酎が体内でケミストリーを起こしていることは明白だった。結局、その日は体調不良で延長料金を支払って夕方までホテルに留まらずを得ず、大分行きもバスツアーも見送りとなった。
バスツアーは幸いにもキャンセル料の請求はなかったが、大分→羽田の便は格安航空券のため料金は戻らず、福岡→羽田は正規料金(およそ5万円)を別途支払い帰路につくしかなかった。

「あいつらテメエが社費で飲みたかっただけじゃねえか。ひとをダシに使いやがって、鬼が!」

手前に都合の良い善意はときに鬼ともなるが、心にもないことを言い酒と慣れないストロングスタイルの食事におぼれたYに非のあることは明白だった。


※福岡~大分旅行が台風で注視になって暇なのでの二番煎じの創作です。食べなれないものを大量に食べるとだいたいこんな感じになるんだと思います。
※ストロングスタイル=A猪木が提唱したプロレスのスタイルで食に用いる言葉ではありませんが、福岡のハードコア料理はその言葉の響きがピッタリなのでした。

2023.8.10